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元治元年9月25日(1864年10月25日)

【長州】御前会議。井上馨(聞多)、武備恭順を強く主張。夜、暗殺未遂/周布政之助、自刃
【坂】筑前藩士喜多岡勇平及び薩摩藩士高崎五六、
長州支族・岩国領主吉川経幹による長州藩恭順周旋のため、大坂出港

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■長州藩の内訌
【長州】元治1年9月25日、御前会議において武備恭順説を強く主張した長州藩士井上聞多は、会議後、刺客に襲われ、瀕死の重傷を負いました。

去る8月の禁門の変で敗走した長州藩は、征長軍に対しての態度を決定しかねていました。藩内はいわゆる保守派の唱える「純一恭順説」(恭順を専一として何を置いても毛利家の社稷を守るべきである)と改革派の唱える「武備恭順説」(外には恭順を見せ、内では武備を整え、場合によっては幕府に一戦を試みる)に分かれて対立していました。

この日、藩主毛利敬親は藩是を決定するために会議を開きましたが、この際、井上聞多は武備恭順を強く主張しました。その結果、敬親は井上の主張を是とし、翌26日に再び会議を開き、その主張にそって藩是を決定することになったそうです。しかし、その夜、井上は数人の刺客に襲われ、重傷を負ってしまいました。

翌26日(25日の深夜)、改革派の周布政之助が、藩主に一書を残して自刃しました

混迷する藩情に責任を感じての自刃でした。御前会議にも出ず、鬱々としていたようです。

参考:『維新史』四p163-171、『防長回天史』六九〇(2018/8/20)

■諸藩の長州恭順周旋(筑前藩&薩摩藩)
【坂】元治1年9月25日、筑前藩士喜多岡勇平及び薩摩藩士高崎五六が、出港しました。

喜多岡・高崎の両名は前24日に京都を出立していました(こちら)。両名は、30日に岩国に到着します。

参考:「喜多岡元道遺蹟」「吉川経幹周旋記『稿本』(綱要DB 9月2日、9月30日条)、『西郷隆盛全集』一p415(2018/8/20)
◆9/27【天狗諸生】 常野追討軍総括田沼意尊、水戸藩主徳川慶篤名代松平頼徳・元水戸藩家老鳥居瀬兵衛・同大久保甚五左衛門等を水戸に召喚し、下市町会所に投じる
◆9/28老中、征長軍進発を促す/小松帯刀着坂
◆9/29【長州の内訌】奇兵隊、書を藩主毛利敬親に上り、藩内の武備を充実して割拠の勢を持し、会津・薩摩二藩排除の策を講じ、三家老を救解せんことを請う。
(以上、綱要)

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